法 話

兵戈無用(ひょうがむよう)

2022年05月01日

 桜も散り、五月を迎えようとしております。花が散る姿に世の無常を感じさせられますが、この数か月、ウクライナのニュースを観るたびに、平和だと思っていたものが一瞬にして崩れ去っていくことを痛感させられます。

 情報を得ることも大切なことですが、ニュースを観ることで心を痛め、辛い想いをなさるようであれば、ご自身の心を保つために観ないこともまた大切なことです。

 さて、お釈迦さまは戦争というものをどのように捉えておられたのでしょうか。

 浄土三部経の一つ『仏説無量寿経』の下巻(現代語訳)にはこのように説かれています。

「仏が歩み行かれるところは、国も町も村も、その教えに導かれないところはない。そのため世の中は平和に治まり、太陽も月も明るく輝き、風もほどよく吹き、雨もよい時に降り、災害や疫病などもおこらず、国は豊かになり、民衆は平穏に暮し、武器をとって争うこともなくなる(兵戈無用)。人々は徳を尊び、思いやりの心を持ち、あつく礼儀を重んじ、互いに譲りあうのである」

 『法句(ほっく)経(きょう)』というお経には次のように説かれています。
「この世において、怨みに報いるに怨みをもってすれば、ついに怨みは息(や)むことがない。怨みを捨てて
こそ息(や)む。これは永遠の真理である」

 また、親鸞聖人が和国の教主(日本のお釈迦様)と讃えた聖徳太子は、十七条憲法の冒頭に、「和をもって貴しとなす」と示され、親鸞聖人は門弟に宛てた手紙の中で、「世のなか安穏(あんのん)なれ 仏法ひろまれ」とお伝えになっておられます。
 
 平和を願う仏教を心の依り所とさせていただきながら、今こそ「兵戈無用」というお釈迦さまの願いを大切にしたいものです。                                        合掌

盲亀浮木のたとえ 『雑阿含経より』

2022年03月01日

 悲喜こもごもの結果となった北京オリンピックが終わりました。選手の皆さんに「本当にご苦労様でした。お疲れさまでした」とお伝えしたい想いです。

 オリンピックは四年に一回。四年は約千四百六十日。それだけ長い間努力を積み重ね、心と身体のコンディションをたった一瞬のためにベストの状態にもってくるということは相当に難しいことだと思います。

 そんなことを考えていた時、ふと頭に浮かんだ仏教の教えが上記の言葉でした。

 ある日お釈迦様が弟子の阿難尊者に「人間に生まれたことをどう思っているか?」と尋ねます。
阿難尊者は「大変うれしく思っております」と答えます。
ここでお釈迦様は一つのたとえ話をされます。
「大海の底に目の見えない亀(盲亀)がいる。その亀は百年に一度海面に顔を出す。その大海に一本の浮木が漂っており、その木の真ん中に穴が一つ空いている。阿難よ、百年に一度浮かび上がってくる亀が、ちょうどこの浮木の穴から頭を出すことがあると思うか?」
阿難尊者は「とても考えられません」と答えます。
するとお釈迦さまは「誰もがあり得ないと思うだろう。しかし全くないとは言い切れない。阿難よ、人間に生まれるということはこのたとえよりも難しいことなのだ。それほど有り難いことなのだよ」
と説かれました。

 私達は自分が人間として生まれたことに疑問を持つことは少ないように思います。しかしこの世の中に数えきれない生き物がいる中で、私達はどんな不思議あってか、非常に生まれ難い人間として命をいただきました。

 さらに、生まれ難い人間に生まれた人の中でも、仏さまの教えに出遇うことができる人はほんの一握りと言われます。そう思いますと今私達が「生まれ難い人間に生まれ、遇い難い仏法に出遇っている」ということは、実はとてもとても不思議なことなのですね。                   合掌

生色生光 老色老光 病色病光 死色死光

2021年12月27日

 先日の報恩講法要にて、ご講師の赤井先生より心に響くお話を聞かせていただきました。その一つが上記の言葉でありました。

 仏説阿弥陀経というお経の中に、

 青色青光(しょうしきしょうこう)
 黄色黄光(おうしきおうこう)
 赤色赤光(しゃくしきしゃっこう)
 白色白光(びゃくしきびゃっこう)
と出てまいります。

「仏さまの世界(お浄土)には車輪のように大きな蓮の花が咲き、青い蓮の花は青い光を、黄色い蓮の花は黄色い光を、赤い蓮の花は赤い光を、白い蓮の花は白い光を放っている」、つまり一つ一つの蓮の花は誰かと比べることなく、自分だけの尊い光を放っていると説かれているのです。

 赤井先生はこの青黄赤白を生老病死に置き換えられました。私達は老・病・死というものを避けて通りたいと願います。できることなら、健康で、長生きして、このいのちを全うしたい、それが私達の想いでありましょう。

しかし、赤井先生はこのようにお話してくださいました。
「仏さまというお方は、
生色生光・・・生きているあなたのいのちそのものが、
老色老光・・・老いていくあなたのいのちも、
病色病光・・・病んでいくあなたのいのちも、
死色死光・・・死にゆくあなたのいのちも、
尊く、輝いているんだ、そう見て下さっているのですよ」

 たとえ私がそのようには受け取れなくとも、「どのようなあなたであろうとも、尊く、輝いているのです」という仏さまの願いが至り届き、厳しい出来事の中で何か一つ「気付き」があったならば、いつか「無駄なことは一つもなかった」と受けとめてゆける時が来るのかもしれませんね。

 ご門徒の皆様方には本年も大変お世話になりました。心より御礼申し上げます。     合掌

無財の七施

2021年11月01日

 十月後半になり、急に朝晩が冷え込むようになってまいりました。世の中には「春夏冬」と書いて「あきない」と読む名字の方もいらっしゃるそうですが、まさに今年は秋を通り越して夏から冬に近づいたような日もございます。くれぐれもお身体ご自愛くださいませ。
     
 上記の言葉は「雑宝蔵経」というお経に説かれている仏教の教えの一つです。「お金や物がなくともできる七つの施し」のことです。つまり「誰にでもできる施し」ともいえるのかもしれません。

 皆さんも「自分はいくつくらいできているだろうか」という想いでご覧になってみて下さい。


一、眼施(げんせ)…人に対し、やさしい眼差しで接すること。
二、和顔施(わげんせ)…柔らかい笑顔で接すること。
三、言辞施(ごんじせ)…やさしい言葉で接する。    
四、身施(しんせ)…重い荷物を持ってあげる、お年寄りや身体の不自由な方を手伝う。
五、心施(しんせ)…思いやりの心を持って相手に接する。
六、床座施(しょうざせ)…相手に席をゆずったり、立場をゆずること。
七、房舎施(ぼうじゃせ)…雨風をしのぐ場所をあたえる、あたたかく迎える。


 できることならいつもこのようにありたいとは思いますが、私自身は出来ていることの方が少ないように感じます。しかしこのような言葉に触れることで、生活の中に小さな変化が生まれてくるような気がいたします。

 お釈迦様によって仏教が説かれたのは二千五百年以上前。どれだけ時代や社会が変わろうとも、仏教はいつも私達に大切なことを教えてくださるのですね。          合掌

くらしの中のギモン 〜聞きたいけど聞けないあんなことやこんなこと〜

2021年10月01日

Q、「お彼岸」ってなあに?
(こちらは8月末にご門徒さんへお届けしました常照寺寺報9・10月号に記載した内容となっております)

A、三月と九月はお彼岸の月です。期間は春分の日もしくは秋分の日を真ん中にはさんだ七日間をいいます。春は牡丹の花の季節からぼたもち、秋は萩の花の季節からおはぎをお供えするとも言われています。

 彼岸とは彼の岸、つまり仏さまの世界を意味します。その仏さまの世界ははるかかなた西の方にあると仏説阿弥陀経に説かれています。

 春分・秋分の日は太陽が真東より昇り真西に沈みます。お彼岸には可能な範囲でお墓参りをなさってください。そして夕日の沈む西へ向かって手を合わせ、一足先に仏さまの世界へ生まれてゆかれた亡き方々を想う期間にしたいものです。

中道(弾琴の喩え)

2021年09月01日

 新型コロナ感染拡大・オリンピック・大雨災害など、この夏も様々なことがありました。今後どのような世の中になっていくのか、多くの方が「先の見えない不安」を抱えています。

 私もそうですが、人は継続して不安を感じ続けると、身体や心が疲れやすくなってしまうものです。その状態でなお「頑張って」しまうと、身体や心が疲れていることにすら気が付けない状態になってしまいます。

「何事も、楽はしすぎず、でも無理もしすぎない」という生き方は、きっといつの時代も大切なのでしょう。


 仏教に「中道(ちゅうどう)」という教えがあります。
お釈迦様の弟子ソーナは、人一倍厳しい修行を続けたものの、なかなか悟りを得られず、ならば世俗に還り、それなりの資産をもつ実家でそれなりの生活をした方がいいのではないかと悩んでおりました。

するとお釈迦様は、ソーナにこう言いました。
「おまえは出家前、琴を弾くのが上手だったと聞く。琴は糸を張りすぎても、緩すぎても、良い音色は出ない。ちょうどいい張り方をして、初めて良い音色が出るものだ。
悟りに至る道もこれと同じである。楽をしすぎても道を得られず、頑張りすぎても決して悟りには至らない。身と心を平穏に保つことを目標にして精進をしてみなさい」
ソーナはこの教えを受け入れ、やがて悟りに至ることができました。

 仏教の教えが、皆さんの身体と心を和らげるささやかな一因になればと願いつつ、今回は中道という教えをご紹介させていただきました。                      合掌

くらしの中のギモン 〜聞きたいけど聞けないあんなことやこんなこと〜

2021年08月01日

Q、常照寺納骨堂へのお参り。お供え物は何でもいいの?

A、亡き人がお好きだった物など、皆さん心の込もった物をお供えしておられます。ところが近年は猛暑の影響もあり、お供えされた果物が数日後には腐っていたり、お団子にカビが生えたり、コバエが飛ぶなどが
見受けられます。
 
 納骨堂を清潔に保つことができますよう、お供え物は傷みやすいものを極力避けていただき、お酒等の飲み物はふたを開けずにお供えしていただければ幸いです。

咲いた花を 喜ぶものは多いが 咲かせた根を  労(ねぎら)うものは少ない

2021年07月01日

 ワクチン接種が始まりました。お参りに伺いますと、二回接種が無事に終わり安堵されておられる方もあれば、オンライン予約が難しく、接種券が届いてもなかなか予約が取れずに困っておられる方も少なくないご様子でした。

一日も早く希望なさる方の接種がスムーズに進むことを願うばかりです。

 「お寺さんも優先されても良いと思うんですが」と仰って下さる方々もありましたが、優先されることはなさそうです。


 さて上記の言葉は、とあるお寺の掲示板に書かれていた言葉です。詩人の相田みつをさんも

「花を支える枝
枝を支える幹
幹を支える根
根はみえねんだなあ」

という詩を残されておられますが、私達は綺麗なお花が目に留まることはあっても、その地面の下でしっかりと花を支えてくれている根に想いを寄せることは少ないように思います。

上記の言葉を読み替えるならば、

「目に見えるものに気付く人は多いが、目に見えないものに気付く人は少ない」

といったところでしょうか。


 サンテグジュペリの『星の王子さま』にこのような一節が出てきます。

「肝心なことは目では見えない。心で探さなくちゃダメなのさ」

目に見えないものにこそ大切なものが隠れているのかもしれません。そこに想いを寄せることができる、そんな豊かな心を養いたいものです。

 暑さ厳しい季節となります。どうぞお身体ご自愛くださいませ。           合掌

くらしの中のギモン 〜聞きたいけど聞けないあんなことやこんなこと〜

2021年06月01日

Q、朝食はパン。お仏(ぶっ)飯(ぱん)はいつお供えしたらいいの?

A、お仏飯とは昔より日本人の主食であったご飯を仏さまへお供えし、食の命を頂いて私が生かされている事に感謝させて頂くためのものです。仏さまや亡き人が食べるための食事としてお飾りしているのでは
ない、というところに驚かれる方も多いかもしれませんね。

  そう考えますと「主食はパンです」という方には「お仏飯」ではなく「お仏パン」のお供えでも良さそうな気もしますが、やはり仏飯器に盛るのはご飯がふさわしいでしょう。

 「夕食しかご飯を炊きません」という方は夕方のお供えでも結構です。ご飯を炊いた時にはご自身がいただく前にまず仏さまにお供えなさってください。

行為の意味

2021年05月01日

 去る三月、東日本大震災から十年を迎えました。節目ということもあり、数日前から震災関連の報道番組をよく見かけるようになりましたが、とある被災者の男性の「あなたたちは十年が節目だと思うかもしれないけれど、私達にとっては何年経っても節目は来ない」という言葉を耳にした時、自分の浅はかさに落胆したことでした。

 震災直後で思い出すことは、ACジャパンのCMです。その中で印象的だったのは

  「こころ」はだれにも見えないけれど
  「こころづかい」は見える
  「思い」は見えないけれど
  「思いやり」はだれにでも見える

という言葉でした。埼玉が生んだ詩人・宮澤章二さんの『行為の意味』から抜粋要約したフレーズです。『行為の意味』は次のような言葉で締めくくられております。

  あたたかい心が
  あたたかい行為になり
  やさしい思いが
  やさしい行為になるとき
  〈心〉も〈思い〉も
  初めて美しく生きる
  ・・・それは
  人が人として生きることだ

 コロナ禍によりどこか殺伐とした私達のこころ。人が人として生きるとはどういうことだったか、今あらためて『行為の意味』から大切なことを教えられたような気がいたします。 合掌
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