法 話

くらしの中のギモン 〜聞きたいけど聞けないあんなことやこんなこと〜

2018年04月01日

Q、納骨って早い方がいいの?

A、時々ご質問いただくのですが、納骨する時期に決まりもなければ、日の良し悪しもありません。亡くなって四十九日を迎える際に納骨される方が多いような気はいたしますが、それにとらわれる必要はありません。
 
 大切な人を失った時、その人がいない人生を受け入れることは簡単なことではありません。長い時間も必要となります。遺骨だけが亡き人とのつながりと感じる方も少なくありません。そんな時急いで納骨してしまったためにかえって気持ちの整理がつかず、苦しんだ方もおられます。
 もちろんその逆も然り、いつまでも納骨できないために気持ちの整理がつきにくいということもあるでしょう。

 そう考えますと「喪主様とご家族のお気持ちが少し落ち着いたと実感できた時」が納骨の一番良いタイミングなのかもしれません。

 ご門徒の皆さまには、もし周囲に納骨の時期で悩んでおられる方がありましたら、ご自分の価値観を押し付けず、喪主様とご家族のお気持ちに寄り添ってアドバイスをしていただけたらと思います。

『効率的かつ質の高い医療提供体制の構築』 『地域包括ケアシステムの構築』

2018年03月01日

 平昌オリンピックも終わりました。羽生結弦選手の金メダルに心打たれた方も多かったのではないでしょうか。苦難に遇っても目標を持って努力を積み重ねることの大切さをあらためて教えていただいた気がします。 

 さて、上記の言葉はこれから国が目指す医療・介護の二本柱です。二〇二五年には団塊世代の方々が後期高齢者(七十五歳以上)に移行し、すでに超高齢社会(六十五歳以上の人口が総人口の二十一%超え)の日本では、国家財政がパンクし専門職も三十八万人が不足すると推定されています。

 そうなれば「入院患者が増えると急患が受け入れ拒否されるのではないか」「退院して在宅に帰りたいが往診医師が見つからないのではないか」「重度の介護度、一人暮らしや老夫婦だけになっても安心して暮らせるのか」「在宅で暮らせなくなった時、施設は十分にあるのか」「認知症になっても地域で生活を続けられるのか」など、不安を抱える方はすでにたくさんおられます。そこで国は上記の二本柱を掲げ「誰もが必要なサービスを受けられ、安心して地域で生活できる社会」を目指してはいます。

 しかし国が求める専門職の中に、心理士や私たち臨床宗教師のような「こころのケア専門職」は重視されていません。どれだけ設備や医療体制が整えられようと、人は必ず年をとり死を迎えます。同時にさまざまな苦悩を抱えます。「安心できる社会」は「安心して年をとることができ、安心して死を迎えられる社会」であって欲しいと願います。そのためには「じっくり話を聞いてくれる人」「想いを受けとめ、寄り添ってくれる人」が必要とされていると自身の臨床宗教師としての緩和ケア病棟での活動の中で、患者さん達から教えられています。

 昔は「悩みがあればお寺の住職さんに相談」という時代もありました。しかしこれからは「悩める方のもとへこちらが出向いてゆく」時代なのかもしれません。

 いつかどこの病院や施設に行っても当たり前にこころのケア専門職が常駐する社会になることを願いつつ、私も細々とではありますが活動を続けてゆきたいと思います。
合掌

くらしの中のギモン 〜聞きたいけど聞けないあんなことやこんなこと〜

2018年02月01日

Q、院号ってなあに?

A,浄土真宗の法名(戒名ではない)は「法名釋○○」と決まっています。釋(しゃく)はお釈迦さまの釈、「お釈迦様のお弟子になる」という意味があります。
  
 これだけでも仏教徒として立派なお名前なのですが、その法名の上に「○○院」という院号がつく方がおられます。
  
 そもそも仏さまをおまつりする所を「寺」というのに対し僧侶などの住む所を「院」と呼んできました。「院」とは元来建物を意味します。著名な僧侶は、その人が住む建物の名前で別名として「○○院さま」と呼ばれることが多かったのです。

 ですから「院号」とは、一寺をになうような有徳の僧侶、一寺を建立するほど仏教に貢献した人、寺の維持のため多くの寄進をした人につく称号だったのです。
  

 しかし浄土真宗の法名は「長い方が立派」というものではありません。大切なのは亡くなってから立派な院号や法名をもらうことよりも、仏さまに褒めていただけるような生き方を「今」出来ているかどうかでありましょう。

何が君の幸せ 何をして喜ぶ 解らないまま終わる そんなのは嫌だ

2017年12月15日

 今年も残すところあとわずかとなりました。

 先日発表された「今年の漢字」は「北」、北朝鮮のミサイルの脅威、九州「北」部豪雨、「北」海道産ジャガイモ不足によるポテトチップスの一部販売中止、大谷翔平選手の大リーグ移籍や清宮幸太郎選手の入団で注目された「北」海道日本ハムなどが理由に挙げられたようです。
 
 皆さまにとってはどのような一年になりましたでしょうか。

 上記の言葉は、ご存知の方も多いのではないでしょうか。四年前に亡くなられたやなせたかしさんが描いたアンパンマン、その歌の歌詞の一節です。

 皆さんにとって「幸せ」とは何ですか?何をしている時に「喜び」を感じますか?

 幸せのかたちは人それぞれです。家族の健康が幸せ、仕事や趣味、心許せる友人があることが幸せ、という方もあるでしょう。ご病気とお付き合いしながらも、病気になってたくさんの「おかげさま」に気付かされましたと穏やかなお顔でお話くださる方もおられます。親やお連れ合いの介護に疲弊しながらも「ありがとう」の言葉に支えられ、喜びや生き甲斐を感じておられる方もおられます。「幸せ」とは他人のものさしでは量ることのできないものなのでしょう。

 では「仏さまの幸せ」とは何でしょうか。仏さまは「あなたが幸せにならなければわたしは幸せにはなりません。必ず救う、我にまかせよ、我が名をとなえよ」といつも願ってくださっております。

 「あなたの幸せがわたしの幸せ」そんな仏さまのお慈悲の心に、実は私たちは支えられていたのでしょう。どうぞ来年はぜひともお寺の法要にお参りいただき、仏さまのぬくもりに出遇う一年になさってくださいませ。

 本年も皆さまには大変お世話になりました。心より御礼申し上げます。   合掌

くらしの中のギモン 〜聞きたいけど聞けないあんなことやこんなこと〜

2017年12月01日

Q、報恩講ってなあに?

A,お寺ではさまざまな法要やイベントが行われていますが、浄土真宗のお寺で一年を通して最も大切に、かつ盛大に勤められてきた法要が「報恩講」です。

 報恩講とは宗祖親鸞聖人のご命日(旧暦では十一月二十八日)にあたり聖人のご遺徳を偲ぶ法要で、常照寺では毎年十二月の頭に三日間の日程でお勤めさせていただいております。

 本堂のお飾りや仏華も一年で最も豪華でとても見応えがあるだけでなく、若松区の真宗寺院のご住職方が常照寺の本堂へご出勤してくださり、お参りの方々には最終日に精進料理も振舞われます。

 一年を締めくくる大切な法要です。常照寺ご門徒の皆さまには、ぜひ一座だけでもお時間つくっていただき、伝統の精進料理を召し上がっていただきながら、非日常な時間を過ごしてみられませんか?

 ぜひともお参り下さいませ。

カフェ・デ・モンク ~Cafe・de・monk~

2017年11月01日

 7月の九州豪雨で大きな被害を受けた地域の一つ、朝倉市。今そこへ九州臨床宗教師会によるボランティアが続けられています。
 
 あらためて、臨床宗教師とは「避難所、病院、施設など、公共の空間において、布教や伝道を目的とせず心のケアを提供する宗教者」のことです。研修を終えた私も、九州臨床宗教師会員の一人として先輩方とボランティアに参加させていただいております。

 私たちが行っているのが『カフェ・デ・モンク』という無料のカフェ。モンクとは英語で僧侶を意味します。つまり「被災者の方々がモンク(僧侶や宗教者)にモンク(文句)の一つでもこぼしていただいて、私たちも共にモンク(悶苦)する」ことを目的としています。

 今、ほとんどの方が避難所から仮設住宅へと移られています。お一人お一人が、大切なものをなくした喪失感、先の見えない不安、日々のストレスを感じておられます。心の健康を取り戻すためには、この先長い時間が必要となるでしょう。

 熊本地震から1年半が過ぎましたが、九州臨床宗教師会は今も熊本でのカフェ・デ・モンクを続けております。大切なのは継続することなのだと実感します。一人一人に出来ることは限りがあるように思いますが、それぞれが自分に出来る範囲で「寄り添う」ことを続けていきたいものです。

 期間限定で常照寺に設置致しました九州豪雨義援金箱にご協力いただいた皆さま、有難うございました。全額を被災地へお届け致しました。            合掌

くらしの中のギモン 〜聞きたいけど聞けないあんなことやこんなこと〜

2017年10月01日

Q、永代経ってなあに?

A、よく「永代経をお願いしたいのですが」と尋ねられることがあります。「永代経」なるものをお寺に頼めば、あとは何もしなくても命日や法事を勤めてもらえるのでは?と少し誤解なさっている方も少なくないようです。

 実は永代経というのは「永代読経」の略、つまり「永代にわたってお寺が存続し、お経の声が響き続けますように」という願いのことなのです。そしてその願いからお寺へ納められるご懇志のことを「永代経懇志」、その願いをうけてお寺が勤める法要を「永代経法要」と言います。

 常照寺では毎年の永代経法要にて、歴代懇志者の名前が書かれた軸を掲げ、浄土三部経というお経をお勤めさせていただいております。つまりお経は毎年勤まります。しかしお寺が特定の懇志者またはそのご家族のご命日や法事を勤めているわけではありません。

 もし「私亡き後誰もいないのだが、命日や法事を勤めて欲しい」とお考えの方は、ご相談に乗ることもできますので、お気軽に常照寺へご相談くださいませ。

相手を100% 理解する必要はない

2017年09月01日

 上記の言葉は、これまで二八〇〇人以上の患者さんを看取ってきたホスピス医の小澤竹俊先生の言葉です。

 最近ご門徒の方々とお話させていただく中で、よくお聞きしたのが「友人が癌の末期なのですが、お見舞いに行っても言葉も見つからず、どうしてあげることもできず苦しいんです」というものでした。

 人は苦しむ相手の気持ちを理解してあげたいと思いますが、一〇〇%理解することなどできません。「お気持ちわかります」などと軽々しく言ってしまってはかえって反感をかうだけです。ではこうした患者さんに対し、私たちにできることは何なのでしょうか。先生は、

丁寧に話を聴くことしかありません。たとえ苦しみ
は解決されなくても、辛い時に「辛い」という言葉
を、苦しい時に「苦しい」という言葉をちゃんと聴
いてくれる人がいるだけで、人は少しだけ、楽な気
持ちになることができます。

とおっしゃっています。

 つまり、『100%相手の苦しみを理解することはできないが、相手の理解者になることはできる』ということなのでしょう。逆に言うならば、「どんなあなたの言葉でも受けとめます」それくらいの覚悟がなければお見舞いには行かない方がいい、とも言えるのかもしれません。
 
 苦しみを抱える人に対し、「こう言えば間違いない」という正解は存在しないように思います。大切なのは『何もできないけれど、そばにいたい』という寄り添うことなのかもしれません。
                       合掌

くらしの中のギモン 〜聞きたいけど聞けないあんなことやこんなこと〜

2017年08月01日

Q、法事、「若い者はまだいい」?

A,核家族化に伴い、親・子・孫の3世代で暮らす家庭は本当に少なくなりました。自宅ではなく病院や施設で最後を迎える方も増え、とくに離れて暮らす若者にとって死は昔ほど身近なものではなくなりました。

 お仏壇のある家庭で育つ子どもも減り、手を合わせることを知らないまま大人になってゆく子も珍しくない時代になりつつあります。

 そんな中、親世代の方々が今心配されているのが「うちの子は私たち亡きあと仏事を勤めてはくれないだろう」「お墓を守ってはくれないだろう」ということです。

 そして心配なさっている方に限って、法事があっても「子や孫はまだいい」と連絡なさらないことも多いようです。


 どうぞ、可能な範囲で子や孫世代みんなで仏事を大切になさってみてはいかがでしょうか。仏事にご縁のなかった世代にとっては法事やお墓は負担となってゆくでしょう。しかし幼い頃から仏事を大切にするご家庭で育った者にとって、法事やお墓は「おかげさま」と人生を歩むことのできる大切な場所となるはずです。

 ご門徒の皆さまには、それぞれに様々な事情を抱えておられることと思います。後々のことでご心配の方は、一度常照寺までご相談くださいませ。

人それぞれに 大切にするものがある  その方が大切にするものを   大切にできる 私でありたい

2017年07月01日

 先日県外に足を運びました際に、石鎚山真言宗のお坊さんと知り合うご縁を頂戴致しました。お話するうちに、名前や年齢など共通点があまりに多いことが分かり、意気投合するのに時間はかからず、お食事に誘っていただきました。

 夜でしたが「このあと予定がなければゆっくりお付き合いさせていただいたのですが」と仰るので、「夜の法座か何かですか?」と伺ってみますと、「今夜は毎月の護摩行の日なんです」と。さすが真言宗です。すると「今後の話のネタにぜひ一度体験してみませんか?」との積極的なお言葉。せっかくのご縁と思いお参りさせていただくことにしました。

 やはり浄土真宗とは本堂内の作りやお荘厳がまるで違いますね。むしろ護摩行のためのお堂という印象さえ受けました。信者の方々とともに一番前に座らせていただき、手にはいただいた経本と火にくべる護摩木を握りしめ、見よう見まねで皆さんとひたすら御真言をお唱えさせていただきました。

 太鼓やホラ貝、鈴の音など大変にぎやかなお勤めに少々圧倒されながら、内陣中央から炎があがり始めます。天井を見上げるとこれまでの護摩行によるススで真っ黒。歴史や想いを感じます。煙が立ち込める中、炎に護摩木をくべて礼拝。信者の皆さんは木札に願い事を書いておられたようです。礼拝は五体投地。両手・両膝・額を地につける仏教で最も丁寧な礼拝作法でした。他にも山ほど書ききれないことが・・・


 大変貴重な経験でした。同じ仏教でもこうも違うものかと感じましたが、実際にお参りさせていただいて初めて分かるものなのでしょう。

 自分の価値観や先入観はときに自分の世界を狭めてしまいます。広い視野をもって「人それぞれに大切にするものがある」ことを認めてゆけるような私でありたいと思わされたことでした。  合掌
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