鬼は私の心の在りよう
2020年11月01日
キンモクセイの香りに秋の訪れを感じる季節となりました。昼夜の寒暖差が激しい時期です。くれぐれもお身体ご自愛くださいませ。
さて、世間は今「鬼滅(きめつ)の刃(やいば)」という漫画が空前のブームを引き起こしています。最近上映が始まった映画では歴代一位の興行収入と観客動員数を記録し、コンビニや回転寿司店、ゲームセンターなどでは多数のコラボ企画が好評継続中です。
この鬼滅の刃、実は仏教や浄土真宗色を随所に感じてしまう漫画なのです。「南無阿弥陀仏」と念仏し、「仏説阿弥陀経」を読経したり、名前に「甘露(かんろ)(お釈迦様が誕生された時に降った甘い雨)」とつくキャラクターがいたり。「彼岸花」や真宗多派の宗派の紋にも使用されている「藤(の花)」が物語の中で大きなポイントとなっていたり、共(ぐ)命(みょう)鳥(ちょう)(仏説阿弥陀経に説かれている鳥。頭が二つありそれぞれの思考を持つが命は一つ)を彷彿とさせる鬼が出てくるなど、とにかく私達僧侶はついついそのような仏教的目線で見てしまうのです。
一言では言えませんが、あえて一言で言うならば「日本一やさしい鬼退治」。
鬼に家族を殺された主人公の少年は、鬼となった妹を人間に戻すべく鬼を滅する旅に出る、これだけなら単なる鬼退治です。鬼滅の刃が「日本一やさしい鬼退治」なのは、鬼が鬼となった因果にもしっかりスポットを当てるところ。そして少年は「鬼は人間だったんだから」「醜い化け物なんかじゃない」「鬼は悲しい生き物だ」と、鬼さえ陽の光のような優しさで包み込み、救ってゆく、ここに読者を惹きつける魅力があるような気がします。
鬼滅の刃から考えさせられることは、「鬼というのは私の心の在りようではないか」ということです。穏やかに過ごしたいと願っても、縁に触れれば腹を立て、誰かを嫉み、憎み、満たされない想いを抱えたまま苦しんでいる、これは他人事ではなく私のことだったのかもしれません。そして、そんな私でさえ陽の光のような優しさで包み込み、救わんとはたらいてくださっているのが仏さまだったのかもしれません。 合掌
さて、世間は今「鬼滅(きめつ)の刃(やいば)」という漫画が空前のブームを引き起こしています。最近上映が始まった映画では歴代一位の興行収入と観客動員数を記録し、コンビニや回転寿司店、ゲームセンターなどでは多数のコラボ企画が好評継続中です。
この鬼滅の刃、実は仏教や浄土真宗色を随所に感じてしまう漫画なのです。「南無阿弥陀仏」と念仏し、「仏説阿弥陀経」を読経したり、名前に「甘露(かんろ)(お釈迦様が誕生された時に降った甘い雨)」とつくキャラクターがいたり。「彼岸花」や真宗多派の宗派の紋にも使用されている「藤(の花)」が物語の中で大きなポイントとなっていたり、共(ぐ)命(みょう)鳥(ちょう)(仏説阿弥陀経に説かれている鳥。頭が二つありそれぞれの思考を持つが命は一つ)を彷彿とさせる鬼が出てくるなど、とにかく私達僧侶はついついそのような仏教的目線で見てしまうのです。
一言では言えませんが、あえて一言で言うならば「日本一やさしい鬼退治」。
鬼に家族を殺された主人公の少年は、鬼となった妹を人間に戻すべく鬼を滅する旅に出る、これだけなら単なる鬼退治です。鬼滅の刃が「日本一やさしい鬼退治」なのは、鬼が鬼となった因果にもしっかりスポットを当てるところ。そして少年は「鬼は人間だったんだから」「醜い化け物なんかじゃない」「鬼は悲しい生き物だ」と、鬼さえ陽の光のような優しさで包み込み、救ってゆく、ここに読者を惹きつける魅力があるような気がします。
鬼滅の刃から考えさせられることは、「鬼というのは私の心の在りようではないか」ということです。穏やかに過ごしたいと願っても、縁に触れれば腹を立て、誰かを嫉み、憎み、満たされない想いを抱えたまま苦しんでいる、これは他人事ではなく私のことだったのかもしれません。そして、そんな私でさえ陽の光のような優しさで包み込み、救わんとはたらいてくださっているのが仏さまだったのかもしれません。 合掌
二河白道(にがびゃくどう)の譬(たと)え (善導大師『観経疏(かんぎょうしょ)』)
2020年09月01日
猛暑の八月もようやく終わりを告げようとしております。皆様も暑さの中、マスクを着けての生活は大変だったことと思います。残暑厳しい時節、どうぞくれぐれも御身ご自愛くださいませ。
さて秋のお彼岸が近づいて参りました。お彼岸とは春分・秋分の日を真ん中に据えた計七日間を言います。彼岸とは仏さまの世界ということです。
親鸞聖人が大変尊敬なさった中国の善導大師による「二河白道」という譬え話には、
西へ向かう旅人(迷いの世を生きる私)の前に、北に水の河(人間の持つ怒りや憎しみの煩悩)南に火の河(人間の持つ貪りや執着の煩悩)が立ちはだかる。交互に押し寄せる二つの河の真ん中にはわずか四~五寸ほどの白い道(阿弥陀仏よりたまわる信心)が東の岸(此の世)から西の岸(浄土・彼岸)へ真っ直ぐ続く。背後からは旅人を殺そうと群賊・悪獣(念仏の教えを否定する人たち)が迫る。絶体絶命のその時、東の岸から「その道を進んで行きなさい」と勧める声(釈迦の教え)が。同時に西の岸から「汝よ、一心にためらいなくこちらへ来なさい。私は必ずあなたを護ります」と喚ぶ声(弥陀の本願)が。それらの声に身をまかせた旅人は白道を進む(自力の行を捨て念仏生活を営む)。途中「おい!その道は危険だ!戻ってこい!」と背後の群賊・悪獣が誘惑する(「念仏では救われない」と説く人たち)。それでも惑うことなく白道を進むと西の岸へ辿り着いた(浄土へ往生し阿弥陀仏とお会いして、慶び極まりない様子)。
と説かれています。
春分・秋分の日は太陽が真東から昇り真西に沈みます。ひと昔前の方々は真西に浄土(彼岸)を想い手を合わせておられたそうです。
皆様も今年のお彼岸には、お仏壇のお掃除、お墓や納骨堂へお参りし、夕日の沈む方へ手を合わせてみられてはいかがでしょうか。
合掌
さて秋のお彼岸が近づいて参りました。お彼岸とは春分・秋分の日を真ん中に据えた計七日間を言います。彼岸とは仏さまの世界ということです。
親鸞聖人が大変尊敬なさった中国の善導大師による「二河白道」という譬え話には、
西へ向かう旅人(迷いの世を生きる私)の前に、北に水の河(人間の持つ怒りや憎しみの煩悩)南に火の河(人間の持つ貪りや執着の煩悩)が立ちはだかる。交互に押し寄せる二つの河の真ん中にはわずか四~五寸ほどの白い道(阿弥陀仏よりたまわる信心)が東の岸(此の世)から西の岸(浄土・彼岸)へ真っ直ぐ続く。背後からは旅人を殺そうと群賊・悪獣(念仏の教えを否定する人たち)が迫る。絶体絶命のその時、東の岸から「その道を進んで行きなさい」と勧める声(釈迦の教え)が。同時に西の岸から「汝よ、一心にためらいなくこちらへ来なさい。私は必ずあなたを護ります」と喚ぶ声(弥陀の本願)が。それらの声に身をまかせた旅人は白道を進む(自力の行を捨て念仏生活を営む)。途中「おい!その道は危険だ!戻ってこい!」と背後の群賊・悪獣が誘惑する(「念仏では救われない」と説く人たち)。それでも惑うことなく白道を進むと西の岸へ辿り着いた(浄土へ往生し阿弥陀仏とお会いして、慶び極まりない様子)。
と説かれています。
春分・秋分の日は太陽が真東から昇り真西に沈みます。ひと昔前の方々は真西に浄土(彼岸)を想い手を合わせておられたそうです。
皆様も今年のお彼岸には、お仏壇のお掃除、お墓や納骨堂へお参りし、夕日の沈む方へ手を合わせてみられてはいかがでしょうか。
合掌
拝まない者も おがまれている 拝まないときも おがまれている (東井義雄)
2020年07月01日
「お盆ってご先祖様が帰ってくるんですよね?」
毎年のお盆参りの際に、ご門徒さんからよく尋ねられる言葉です。私達日本人にとってお盆は、お墓や納骨堂へお参りし、ご先祖様を偲ぶ大切な行事となっています。
本来「お盆」とは「盂蘭盆(うらぼん)」の略称です。古いインドの言葉「ウランバナ」の音訳で、「逆さ吊り」という意味があります。『盂蘭盆経』というお経には、
【釈尊十大弟子の一人、神通第一の目連尊者は、亡き母が餓鬼道で苦しむ姿を見てしまう。必死に母を救い出そうとする目連尊者がお釈迦様の教えに出遇って救われてゆく】
という因縁が説かれています。一説にはお盆の由来ともいわれています。
冒頭のご質問に、以前私は
「ご自身はどう思われますか?」とお返しました。すると、
「そうですね・・・帰ってくるというよりも、帰ってきて欲しいなって思います」と話してくださいました。
亡き人が大切な方であればあるほど、「会いたい」「会えなくともそばに感じたい」と思う。お盆というのは亡き人を偲ぶだけでなく、残された方がこれからを生きてゆくための大切なひとときなのだと教えていただいたことでした。
浄土真宗は「大切な亡き方はいつもそばにいてくださる」と受けとめてゆきます。上記の東井先生のお言葉にもありますように、「亡き人におがまれている私」それはつまり「亡き人は仏さまのおはたらきとなって、いつも私のそばにいてくださる」と受けとめることができるのではないでしょうか。
目に見えないつながりを感じ、感謝の想いで手を合わせるお盆にしたいものですね。
合掌
毎年のお盆参りの際に、ご門徒さんからよく尋ねられる言葉です。私達日本人にとってお盆は、お墓や納骨堂へお参りし、ご先祖様を偲ぶ大切な行事となっています。
本来「お盆」とは「盂蘭盆(うらぼん)」の略称です。古いインドの言葉「ウランバナ」の音訳で、「逆さ吊り」という意味があります。『盂蘭盆経』というお経には、
【釈尊十大弟子の一人、神通第一の目連尊者は、亡き母が餓鬼道で苦しむ姿を見てしまう。必死に母を救い出そうとする目連尊者がお釈迦様の教えに出遇って救われてゆく】
という因縁が説かれています。一説にはお盆の由来ともいわれています。
冒頭のご質問に、以前私は
「ご自身はどう思われますか?」とお返しました。すると、
「そうですね・・・帰ってくるというよりも、帰ってきて欲しいなって思います」と話してくださいました。
亡き人が大切な方であればあるほど、「会いたい」「会えなくともそばに感じたい」と思う。お盆というのは亡き人を偲ぶだけでなく、残された方がこれからを生きてゆくための大切なひとときなのだと教えていただいたことでした。
浄土真宗は「大切な亡き方はいつもそばにいてくださる」と受けとめてゆきます。上記の東井先生のお言葉にもありますように、「亡き人におがまれている私」それはつまり「亡き人は仏さまのおはたらきとなって、いつも私のそばにいてくださる」と受けとめることができるのではないでしょうか。
目に見えないつながりを感じ、感謝の想いで手を合わせるお盆にしたいものですね。
合掌
うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる
2020年05月01日
今年の一月より少しずつ話題となり始めた新型コロナウイルス、国内外でまさかここまで影響が拡大するとは思わなかったという方も少なくないのではないでしょうか。お彼岸参りの際にお話伺いますと、
「学校が休校となり、子ども達も退屈でしょうけど親も大変です」
「楽しみにしてた卒業式や入学式。行きたかったです」
「(入院・入所している)家族に会うこともできない。寂しい想いをしてるでしょうね」
「病院に行きたいけど、感染が怖いのでなるだけ行かないようにしてます」
など、皆さんそれぞれに様々な不安やストレスを抱えておられるようでした。
そんな中上記の言葉を目にしました。相田みつをさんの言葉です。
うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる
うばい合えばあらそい わけ合えばやすらぎ
うばい合えばにくしみ わけ合えばよろこび
うばい合えば不満 わけ合えば感謝
うばい合えば戦争 わけ合えば平和
うばい合えば地獄 わけ合えば極楽
当たり前の日常を当たり前に送ることができないストレスからでしょうか、どこか殺伐とした今の社会、そんな今の私達に大切な言葉の一つではないでしょうか。
困難な時ほど、分け合うことの大切さを忘れてはいけない。・・そんな私はいつも忘れがちです。
感染の早期終息と、皆様の心身のご健康を念じ申し上げます。 合掌
「学校が休校となり、子ども達も退屈でしょうけど親も大変です」
「楽しみにしてた卒業式や入学式。行きたかったです」
「(入院・入所している)家族に会うこともできない。寂しい想いをしてるでしょうね」
「病院に行きたいけど、感染が怖いのでなるだけ行かないようにしてます」
など、皆さんそれぞれに様々な不安やストレスを抱えておられるようでした。
そんな中上記の言葉を目にしました。相田みつをさんの言葉です。
うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる
うばい合えばあらそい わけ合えばやすらぎ
うばい合えばにくしみ わけ合えばよろこび
うばい合えば不満 わけ合えば感謝
うばい合えば戦争 わけ合えば平和
うばい合えば地獄 わけ合えば極楽
当たり前の日常を当たり前に送ることができないストレスからでしょうか、どこか殺伐とした今の社会、そんな今の私達に大切な言葉の一つではないでしょうか。
困難な時ほど、分け合うことの大切さを忘れてはいけない。・・そんな私はいつも忘れがちです。
感染の早期終息と、皆様の心身のご健康を念じ申し上げます。 合掌
くらしの中のギモン 〜聞きたいけど聞けないあんなことやこんなこと〜
2020年04月01日
Q、お位牌を整理して過去帳に書き写したいのですが?
A、浄土真宗では基本的には過去帳を用いますが、今お位牌をお使いの方はそのままでも結構です。お仏壇がお位牌でいっぱいになったり、繰り出し位牌の中の木札に亡き人のお名前を書ききれなくなった際は、過去帳への整理を検討されても良いかもしれません。
過去帳は数十名もの故人名を書くことができ、日付入りであれば日めくりで今日がどなたのご命日か一目で分かります。
どこまでさかのぼって故人名をお書きするかはご家族でよくご相談なさってください。書き写しはお寺へご相談ください。
A、浄土真宗では基本的には過去帳を用いますが、今お位牌をお使いの方はそのままでも結構です。お仏壇がお位牌でいっぱいになったり、繰り出し位牌の中の木札に亡き人のお名前を書ききれなくなった際は、過去帳への整理を検討されても良いかもしれません。
過去帳は数十名もの故人名を書くことができ、日付入りであれば日めくりで今日がどなたのご命日か一目で分かります。
どこまでさかのぼって故人名をお書きするかはご家族でよくご相談なさってください。書き写しはお寺へご相談ください。
和顔愛語
2020年03月01日
さて、先日あるご門徒さんとのお話です。「野菜や花も話しかけながら育てるとこたえてくれます。畑に向かう時も、道すがら木やお花に話しかけながら歩いております」とのことでした。素晴らしいなぁと思いました。「心にゆとりがないとなかなか出来ないでしょうね」とお返ししますと、「・・・というよりも、話しかけることで心にゆとりが生まれるように思いますね」と教えてくださいました。
なるほどなぁと思いました。私は「優しい言葉」というのは心が安定し、自分に余裕がなければ出てこないものと思い込んでいたのかもしれません。事実、例えば病気になり自分のことで精いっぱいで余裕がない時、例えば腹が立ち心がすさんでいる時、どうも私の口からは優しい言葉や温かい言葉は出てこないようです。つまり「心のゆとり → 優しい言葉」という順序です。しかしこの方が教えてくださったのは「優しい言葉 → 心のゆとり」という順序でした。大変勉強になりました。
同時にある言葉を思い出しました。
「人間は、幸せだから感謝するのではない。
感謝が人を幸せにする」
ある海外僧侶の言葉です。ここに先程の言葉を当てはめるならば、
「人間は、心にゆとりがあるから優しい言葉が出るのではない。
優しい言葉が心にゆとりをもたらす」
となるのでしょう。
上記の言葉は「和顔愛語(わげんあいご)」と読みます。「和やかな笑顔と優しい言葉で相手に接する」ことです。周りの人を幸せにできる大切な行いです。困難な時こそ和顔愛語でありたいものですね。そうすることで自分の心にもゆとりが生まれるのかもしれません。
合掌
なるほどなぁと思いました。私は「優しい言葉」というのは心が安定し、自分に余裕がなければ出てこないものと思い込んでいたのかもしれません。事実、例えば病気になり自分のことで精いっぱいで余裕がない時、例えば腹が立ち心がすさんでいる時、どうも私の口からは優しい言葉や温かい言葉は出てこないようです。つまり「心のゆとり → 優しい言葉」という順序です。しかしこの方が教えてくださったのは「優しい言葉 → 心のゆとり」という順序でした。大変勉強になりました。
同時にある言葉を思い出しました。
「人間は、幸せだから感謝するのではない。
感謝が人を幸せにする」
ある海外僧侶の言葉です。ここに先程の言葉を当てはめるならば、
「人間は、心にゆとりがあるから優しい言葉が出るのではない。
優しい言葉が心にゆとりをもたらす」
となるのでしょう。
上記の言葉は「和顔愛語(わげんあいご)」と読みます。「和やかな笑顔と優しい言葉で相手に接する」ことです。周りの人を幸せにできる大切な行いです。困難な時こそ和顔愛語でありたいものですね。そうすることで自分の心にもゆとりが生まれるのかもしれません。
合掌