法 話

人それぞれに 大切にするものがある  その方が大切にするものを   大切にできる 私でありたい

2017年07月01日

 先日県外に足を運びました際に、石鎚山真言宗のお坊さんと知り合うご縁を頂戴致しました。お話するうちに、名前や年齢など共通点があまりに多いことが分かり、意気投合するのに時間はかからず、お食事に誘っていただきました。

 夜でしたが「このあと予定がなければゆっくりお付き合いさせていただいたのですが」と仰るので、「夜の法座か何かですか?」と伺ってみますと、「今夜は毎月の護摩行の日なんです」と。さすが真言宗です。すると「今後の話のネタにぜひ一度体験してみませんか?」との積極的なお言葉。せっかくのご縁と思いお参りさせていただくことにしました。

 やはり浄土真宗とは本堂内の作りやお荘厳がまるで違いますね。むしろ護摩行のためのお堂という印象さえ受けました。信者の方々とともに一番前に座らせていただき、手にはいただいた経本と火にくべる護摩木を握りしめ、見よう見まねで皆さんとひたすら御真言をお唱えさせていただきました。

 太鼓やホラ貝、鈴の音など大変にぎやかなお勤めに少々圧倒されながら、内陣中央から炎があがり始めます。天井を見上げるとこれまでの護摩行によるススで真っ黒。歴史や想いを感じます。煙が立ち込める中、炎に護摩木をくべて礼拝。信者の皆さんは木札に願い事を書いておられたようです。礼拝は五体投地。両手・両膝・額を地につける仏教で最も丁寧な礼拝作法でした。他にも山ほど書ききれないことが・・・


 大変貴重な経験でした。同じ仏教でもこうも違うものかと感じましたが、実際にお参りさせていただいて初めて分かるものなのでしょう。

 自分の価値観や先入観はときに自分の世界を狭めてしまいます。広い視野をもって「人それぞれに大切にするものがある」ことを認めてゆけるような私でありたいと思わされたことでした。  合掌

くらしの中のギモン 〜聞きたいけど聞けないあんなことやこんなこと〜

2017年06月01日

Q、お経の本って床においたらいけないんですか?

A,お経の本は、仏さまの願いが書かれたとても大切なものです。お経の本やお念珠は、人が歩くようなところ(床やたたみの上)には決しておかないようにしましょう。お勤めのあとは、ひざの上や経本入れにしまっておきましょう。
   
 また、経本をひらく際にも作法があります。まず、経本を胸の前に地面と平行に保ち、おでこに近づけるように経本をいただき、また胸の前へ。そしてひらきます。とじる際も同じです。

 読経の際、ひらいた経本は必ず両手で持ち、ひざの上においたりせず、胸の前に保持し、お勤めしましょう。

 また、お経はまず声に出してみることが大切です。慣れない方は間違えてもいいんです。思い切って声に出してみましょう。

 真宗木辺派のお経本をお求めの方は、本山錦織寺より取り寄せております。常照寺までご連絡くださいませ。

青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光(仏説阿弥陀経)

2017年05月01日

 先日、「常照寺 春の本山巡りの旅~京都・滋賀」と題し、ご門徒の方々と二泊三日の旅行に行って参りました。天候が心配されましたが、ほとんど雨にあうことはなくなんといっても桜がまだ沢山残っていてくれたことに皆で感激したことです。

 旅中、さまざまな宗派の本山にお参りさせていただきました。天台宗の比叡山延暦寺、浄土宗の知恩院、真宗興正派の興正寺、浄土真宗本願寺派の西本願寺、臨済宗天龍寺派の天龍寺、そして私たち真宗木辺派の錦織寺(きんしょくじ)、いずれも大変素晴らしいものでした。

 特に延暦寺と知恩院のお晨朝では、真宗とは教えは違うものの、声明(お経)や作法などあらためて双方の歴史や伝統の素晴らしさを感じる良きご縁となりました。

 今回の旅で感じましたことは、自分の心のよりどころ(大切にする教え)はもちろんしっかりと持っておかねばならない。けれども他の宗教や宗派を認め合うことができる、これができて初めて本当の宗教者なのかもしれないということでした。

 それを教えてくれたのは天龍寺の桜や色とりどりのツツジや石楠花でした。花たちは決して周りをうらやましがったりけなすこともなく、お互い認め合うようにそれぞれ懸命に自分の色を輝かせているようでした。お浄土に咲く青黄赤白の大輪の花と同じですね。

 認め合うことができなければ、争いしか生まれないように感じます。私も花のようにありたいと思わされたことでした。
 
 さて、五月六月も法要や講座、婦人会と行事が盛り沢山です。まだ法要などにお参りされたことのないご門徒の皆さま、ぜひともご参加してみてください。お寺へ参って自分色の花をご一緒に咲かせてみませんか?                               合掌 

くらしの中のギモン 〜聞きたいけど聞けないあんなことやこんなこと〜

2017年04月01日

Q、お寺でお葬式ってできるんですか?

A,最近では葬儀社で通夜・葬儀を勤修することが主流になっておりますが、常照寺の門徒に限り、常照寺本堂また常照寺新館にて通夜・葬儀を勤めることができます。(門徒以外の方でも今後常照寺の門徒加入することを承諾していただくことで使用は可能です)ただし、お寺の法要等と日が重なった際は本堂の使用ができない場合もあります。

 お布施とは別に会場使用料をいただくことになりますが、お寺の本堂であればすでに阿弥陀如来さまがいらっしゃいます。仏さまの世界(浄土)が表現された金襴のお内陣があります。これ以上のお荘厳(おかざり)はありません。そのため、必要最低限のもの以外の余計な出費を省くことができるでしょう。

 ですが一番大切なことは「お寺さんでお見送りしていただきたい」という自分やご家族のお気持ちでありましょう。「まだ生きてるのに縁起でもない」などとおっしゃらず、大切なことです。今のうちにご家族と「もしもの時はどうしてほしいのか」、意思の共有をしておくことで、お互いの安心にもつながるように思います。

 詳細ご希望の方は、常照寺までご相談くださいませ。

受けとめる 大地のありて 椿落つ

2017年03月01日

 お参り中、紅白の梅の花や椿を見かけるようになりました。春の訪れですね。ついこの間年が明けたような気がいたしますが、時の流れは早いものです。

 さて、上記の言葉は浄土真宗本願寺派、武内洞達先生のお言葉と言われております。拙寺常照寺の中庭にも椿があり、今大輪の真っ赤な花を咲かせております。その椿の花を見るたびに、毎年この言葉を思い出します。

 椿は、見事な花を咲かせますが、散り方はとても大胆なものです。桜のように花びらが舞い散ってゆくわけではなく、花全体がボトっと地面に落ちてしまいます。枯れてそのまま地面に落ちた姿には、寂しい「いのちの終わり」を感じてしまいます。

 しかし先生はその姿を寂しい姿とは見られませんでした。むしろ大地の方が「精一杯生きましたね。よく頑張りましたね」と受けとめてくれている、だからこそ椿自身も安心して散っているのですね、とみられたのです。
 
 この椿は誰でしょうか?先生は他でもない「私」だとみてゆかれました。そして「精一杯頑張りましたね」と私の人生を受けとめて下さる大地を「仏さま」「仏さまの世界(浄土)」とみてゆかれました。

 誰も死後のことは分かりません。しかし、こんな私を丸ごと受けとめて下さる大きなはたらきがあると気付かされた時、私たちは大きな安心の中に苦難多き人生を歩んでゆけるのかもしれません。

 三月の春彼岸もぜひともお時間つくっていただきお参りお聴聞下さい。「聞く」ことなしには救われることなし、それが浄土真宗であります。         合掌

くらしの中のギモン ~聞きたいけど聞けないあんなことやこんなこと~

2017年02月01日

(この内容は昨年末配布の寺報に掲載したものです)

Q、神社に初詣に行ってはいけないのでしょうか?

A,お正月は家族や友人と毎年初詣に、そんな方も多いでしょう。しかし日頃は「なんまんだぶつ」、神社では「二礼二拍手一礼」? 真宗門徒であれば、神社でも「なんまんだぶつ」でいいのです。

 こんな話があります。昔、平太郎という念仏者が仕事で熊野大社へお参りしなければならなくなり、親鸞聖人に相談します。すると「熊野の証誠殿におられるのは神に姿を変えた阿弥陀如来である。念仏の教えに出会えなかった者まで救おうとされる姿なのだ」とおっしゃいました。
 
 平太郎は教えのままに、神道の作法はせずいつも通りお念仏しました。すると夜、夢に貴族らしき者が現れ、「汝はなぜ我を軽んじ不浄のままお参りしたのだ」と。そこへ親鸞聖人が現れ「彼は私のすすめによって念仏する者なり」とおっしゃると、深々と礼をし、消えていった、こんなお話です。

 この熊野信仰は全ての神社に当てはまるわけではないで
しょうけれど、自分の生きるよりどころはしっかり持っておかねばなりません。

 初詣がダメではありませんが、真宗門徒であれば、どこにお参りしても堂々と「なんまんだぶつ」とお念仏したいものです。

門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし

2016年12月16日

 二〇一六年も残すところあとわずかとなりました。今年を振り返りますと、「熊本地震」「リオデジャネイロオリンピック」、「トランプ旋風」に「広島東洋カープ優勝」「盛り土問題」…そして「PPAP」、災害や国内外に話題の多い一年だったように思います。本格的に寒さ厳しい季節となります。皆さまくれぐれも御身ご自愛下さいませ。

 さて、上記の言葉、皆さんどなたが残した言葉かご存知でしょうか?とんちで有名な室町時代の臨済宗の僧侶、一休さん(一休宗純)の言葉と言われています。(記録に残る言葉とは少し変化したようですが)

 一里塚とは、江戸時代、主要な街道に一里(約四キロ)ごとに築かれた塚、つまり旅人への指標であります。

 私たちは新年を迎えますと「明けましておめでとうございます」と挨拶を交わします。無事新たな年を迎えられたことがめでたいという自然な言葉でありましょう。

 しかし一休禅師は「めでたい門松も、立てるたびに年を重ねてゆく。それはまるで死へと向かう人生という旅路の指標ともいえよう。それゆえ正月は、めでたくもあり、めでたくもなし」とおっしゃったのです。

 誰も避けることができない「死」、他人事ではなく「私」のことと自覚し、その厳しい現実を受け入れ乗り越えてゆく力を与えてくださるもの、それこそ仏教であります。

 本年もご門徒の皆さまには大変お世話になりました。常照寺寺族一同心より御礼申し上げます。来たる年もどうぞ宜しくお願い致します。           合掌

くらしの中のギモン ~聞きたいけど聞けないあんなことやこんなこと~

2016年12月01日

Q、お寺の法要、お話は聞いてみたいけど
         何をもっていけばいいの?

A,お寺のこと、仏事のことは誰かに教えてもらわなければわからないことが多いものです。

  「法要」にお参りされる際、必要なものは、
・お念珠(お寺にはいつもお念珠を持っていきましょう)

・お経本(貸出用もありますが、ご自分用を一冊もっておかれるといいですよ)

・御法礼(法要には、ご講師へのお礼やお茶菓子代、清掃奉仕に来てくださった方や参詣者へのお食事代など毎回たくさんのお金がかかります。皆さまからの御法礼をその一部に当てさせていただいております。)

・門徒式章(浄土真宗ではお念珠だけでなく門徒式章をさげる、スーツや礼服よりも、これが手を合わせるときの一番の正装になります。お求めの方は常照寺へお問い合わせください。一本千円ほどからございます。もちろん式章がなくてもお参りできます。)

あなた往く人 私少し遅れて往く人 ともに浄土へ歩む人

2016年11月01日

 暑かった夏も終わり、あっという間に秋を通り越して冬の訪れを感じる季節となりました。今年も残すところあと二か月。皆さまにはくれぐれもお体ご自愛いただいて、ともにお念仏申しながら年の瀬を迎えさせていただきたいものです。

 さて先日拙寺に於きまして「永代経法要」が勤まり、ご講師には鹿児島より長倉伯博先生をお迎えいたしました。先生は医者や看護師の方々と医療チームを結成し、薬の力ではどうしようもなくなってしまった末期の患者さんに寄り添う活動を続けておられる方です。法要に来れなかった方のために、先生のお話の中から、末期の方の「お見舞い」に関する注意点をご紹介いたします。

一、「頑張って、と決して言わないでください」
病気の方は皆さん頑張ってるんです。あなたが帰ったあと患者さんは「先生、私はこれ以上何を頑張ったらいいのでしょう」と泣いているのですよ。

二、「かわいそうと思わないでください」
その方の病気しかみていない証拠です。今までの人生どれだけ頑張ってこられたか、「その人」を見てあげてください。

三、「うわべだけの励ましはどうかやめてください」
弱気な言葉に「そんなことないよ、きっと大丈夫」なんて言うと、容態が悪化していくうちに「こうなること分かっていたんでしょ!嘘つき」と人間関係は切れますよ。「つらいね、くやしいね…」と一緒に事実を受け止めてください。

 私たちにも今すぐ実践できることばかりです。
「あなた往く人、私残る人」そんな気持ちでお見舞いに伺うと、かえってその方を傷つけてしまうことがあるとの先生のお話でありました。

そうではなく、
「あなた往く人、私少し遅れて往く人、ともに浄土へ歩む人」
そんな想いで大切な方の病室に足を運ばせていただきたいものです。


くらしの中のギモン 〜聞きたいけど聞けないあんなことやこんなこと〜

2016年10月01日

Q、「葬儀」と「告別式」って何が違うの?

A,最近では、お坊さんも呼ばずお経もあがらない「告別式」という名のお別れ会もあると聞きます。残念なことにこれまで仏法にご縁のなかった方はお経や仏さまのお話に必要性を感じないのでしょう。とにかく「無駄なものは省こう」といういかにも現代的な形式です。

 しかし「葬儀」は単なるお別れ会ではないのです。葬儀とは「葬送の儀式」、つまり「お見送り」なのです。
 
 「お見送り」と「お別れ」の大きな違いは、その人の行き先が分かっているかいないか、でありましょう。
 皆さんは誰かを見送る時、その方の行き先が分かっているからこそ「また会おうね」と言葉が出ませんか?ところがお別れはただその人と離れることをあらわすように思います。

 お念仏の教えに生きた人にとって死はただのお別れではありません。「また会おうね」、その場所こそ「浄土」であります。

 浄土真宗のご門徒であれば、「さようなら」ではなく「またお浄土で会おうね」そんな葬儀を大切にしていただければ幸いです。
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