法 話

くらしの中のギモン 〜聞きたいけど聞けないあんなことやこんなこと〜

2016年10月01日

Q、「葬儀」と「告別式」って何が違うの?

A,最近では、お坊さんも呼ばずお経もあがらない「告別式」という名のお別れ会もあると聞きます。残念なことにこれまで仏法にご縁のなかった方はお経や仏さまのお話に必要性を感じないのでしょう。とにかく「無駄なものは省こう」といういかにも現代的な形式です。

 しかし「葬儀」は単なるお別れ会ではないのです。葬儀とは「葬送の儀式」、つまり「お見送り」なのです。
 
 「お見送り」と「お別れ」の大きな違いは、その人の行き先が分かっているかいないか、でありましょう。
 皆さんは誰かを見送る時、その方の行き先が分かっているからこそ「また会おうね」と言葉が出ませんか?ところがお別れはただその人と離れることをあらわすように思います。

 お念仏の教えに生きた人にとって死はただのお別れではありません。「また会おうね」、その場所こそ「浄土」であります。

 浄土真宗のご門徒であれば、「さようなら」ではなく「またお浄土で会おうね」そんな葬儀を大切にしていただければ幸いです。

「おかげさま」と生かされて 「ありがとう」と生きぬこう

2016年09月01日

 リオデジャネイロオリンピックも終わり、季節はもう秋のお彼岸を迎えようとしています。終わってみれば日本選手団のメダルラッシュに沸いた八月でしたね。皆さんはどのシーンが一番印象的だったでしょうか?

 体操男子団体悲願の金メダル、一躍脚光を浴びた卓球やバドミントン、レスリング吉田選手の涙の銀メダルなど、記録だけでなく記憶にも残るオリンピックでもありました。

 そんな中、オリンピック精神「助け合う心」を教えてくれた陸上女子5000M予選の選手たちも話題となりました。競技中転倒した二人の選手が、お互いに支えあいながらゴールしたのです。これまで血のにじむような努力を重ねてきたことでしょう。0.1秒でも自己ベストを縮めたかったことでしょう。自分のことだけ考えて走っても良かったはずです。しかしそれを投げ捨ててでも相手を敬い助け合う姿は私たちに大切なことを気付かせてくれたように思います。

 「結果がすべて」という風潮の強い今の世の中で、私たちは気が付かないうちに誰かを傷つけ、自分中心に生きていることが多いのかもしれません。ですが私たちが決して忘れてはいけないもの、それは「おかげさま」と「ありがとう」の心なのかもしれません。

 私たちは決して一人では生きてゆけません。目に見えないたくさんの「おかげさま(阿弥陀如来さまの願い)」に気付かされた時に自然とこぼれる言葉、それが「ありがとう(南無阿弥陀仏)」でありましょう。

 九月・十月もぜひ法要にてお聴聞ください。お話を聞くことでしか気付けないことがたくさんあります。ぜひお時間作っていただきお参りになってください。
合掌

くらしの中のギモン 〜聞きたいけど聞けないあんなことやこんなこと〜

2016年08月01日

Q,金封の表書き、どんな時にどう書くの?

A,〈月忌参り・法事〉→「御布施」(水引は黒白・黄白)
      ※月忌参りは水引無しで構いません

〈法事に招かれた時〉→「御仏前」「御供」(黒白・黄白)

〈通夜・葬儀に参列〉→「御香典」「御仏前」(黒白)
     ※「御霊前」は仏教にはふさわしくありません

〈葬儀後のお寺参り〉→「御布施」(黒白・黄色)
     ※「お経代」や「お礼」ではありません

〈お寺の法要にお参り〉→「御法礼」
            (特に水引は不要)

〈報恩講法要・降誕会法要にお参り〉→「御法礼」(紅白)

〈入仏・建碑式・初参式〉→「御布施」(紅白)

〈本堂落慶法要(本堂新築)〉→「御祝」(紅白)

厳密な決まりはありませんが、ぜひ参考になさってみて下さい。

セミは春秋を知らない ゆえに夏を生きているということも知らない

2016年07月01日

 梅雨に入り、蒸し暑い日が増えてまいりました。今年の夏は猛暑になるようです。どうか皆さまお身体大事になさってください。
 
 さて、もうじきセミの大合唱が聞こえる季節となります。この時期になりますと『浄土論註』という書物の中の
「蟪蛄(けいこ)春秋を知らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや」
という言葉を思い出します。蟪蛄とはセミのことです。つまり「セミは春や秋を知らない。ゆえに夏を生きていることも知らない」という意味です。
 
 皆さんは今どこを生きておられますか?よく「人間死んだらしまい」「生きてるうちが華」とおっしゃる方もおられるようですが、「今がすべて」と生きているならば、それはセミと同じ生き方なのかもしれません。
 
 私たちにとっての春や秋は『生まれる前(春)』と『死んだ後(秋)』でありましょう。そこが見えた時、初めて「私は今どこを生きているのか」を知らされるのかもしれません。
 
 その答えをご存知なのは仏さまだけであります。そして仏さまのお話を聞ける場所こそお寺であります。
「答えの出ない問い、仏法にたずねよ」
 七月・八月もぜひお聴聞下さい。初めての方もお待ちしております。
                        合掌

くらしの中のギモン~聞きたいけど聞けないあんなことやこんなこと~

2016年06月01日

Q.真宗と浄土真宗って違うの?
A.浄土真宗には実は十派あるんです。
浄土真宗本願寺派(京都)
真宗大谷派(京都)
真宗高田派(三重)
真宗佛光寺派(京都)
真宗興正派(京都)
真宗木辺派(滋賀)
真宗出雲路派(福井)
真宗誠照寺派(福井)
真宗三門徒派(福井)
真宗山元派(福井)※( )内は本山所在地
どれも宗旨は浄土真宗ですが、宗派名に浄土真宗が付くものと真宗と付くものがあるだけです。読むお経も同じです。ただ宗派によって節まわしや音は違います。
「あんたのとこは何宗?」と聞かれたら「浄土真宗」
「あんたのとこ宗派は?」と聞かれたら「真宗木辺派」
とお答え下さい。

お寺とのご縁を

2016年05月01日

桜も散り、あっという間に5月を迎えようとしております。ついこの間、年が明けたような気がしますが、月日の流れとは早いものですね。

さて、皆さんは「お坊さん便」というものをご存知ですか?東京の葬儀関連会社「みんれび」が始めた派遣サービスのことで、インターネット通販の大手「アマゾン」が取り扱いを始めたことで今大きな話題となっています。
つまり、「インターネットでお坊さんを注文し、定額で法事等を勤めてもらう」のです。これまでお寺とご縁のなかった方や、お布施の額が不透明と感じていた方からは支持されているようですが、一方で「宗教行為を商品にしている」と抗議しているのは全日本仏教会。

皆さんはいかが思われますか?こういうサービスが出てくるのは時代の流れでしょうし、それがきっかけとなって家族の方が仏法に遇う良き縁となれば否定はできないのかもしれません。ですが、あくまで今までお寺とのご縁がなかった方のお話です。

常照寺は寺報の他に昨年ホームページを作成し、毎月写真やお話を随時更新しております。せっかくご縁をいただいた皆さんに「自分のお寺がどういうお寺なのか」ぜひ知っていただき、ご自分のお寺とのご縁を深めていただくきっかけとなれば、大変嬉しく思います。
合掌

くらしの中のギモン ~聞きたいけど聞けないあんなことやこんなこと~

2016年04月01日

Q.浄土真宗では般若心経はよまないってホントですか?

A.経と名のつくものは全てお釈迦様の説かれたお話です。般若心経もその一つ。尊いものに違いありません。そもそも仏教の最大の目的は成仏、つまり仏さまに成ることです。その手立てに各宗派違いがあるのです。
般若心経は『自らの力を成仏に役立てよう(自力)』という内容のお経なんです。ところが自力で救われる人は相当な鍛練や精神修行のできる人の中でもごくごくわずか。普通の日常生活をおくる人ではまず救われることはないでしょう。
そんな私が救われる道は『自らの力は成仏に何の役にも立たないと気づかされる(他力)』道、つまり「そのままのあなたを必ず救う」という阿弥陀さまにお任せする生き方しか残っていないのです。
浄土真宗の門徒であれば、阿弥陀さまの救いが説かれた『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』や『正信偈』をお勤めしましょう。

ただ仏法は聴聞にきはまることなり

2016年03月01日

まだまだ肌寒い日もありますが、お参り中、あちこちのお宅の庭先に咲く紅白の梅の花に、春の訪れを実感する季節となりました。満開の桜も目を惹きますが、どこかつつましく咲く梅の花はいかにも日本的で私は好きです。

さて3月は春のお彼岸の月です。常照寺では講師の先生をお招きする今年最初の法要が勤まります。それぞれにお忙しい日々を送っておられることと思いますが、ご門徒の皆さまにはどうか今年を一度でもお寺参りする年にしていただければと願います。浄土真宗で一番大切なことは「お聴聞(仏さまのお話を聞くこと)」なんです。

室町時代の浄土真宗の僧侶、蓮如上人は「至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、・・・いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、お慈悲にて候うあひだ、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまることなり(御一代記聞書)」と、つまり「一粒の水滴でも同じ所に落ち続ければ石に穴をあけるように、仏法を聞こうともしないこんな私であっても、同じことを繰り返し聞かせていただくとふと阿弥陀さまの御声が聞こえてくださる時がくる。何度も聞く、これが大事」とおっしゃいました。

「お寺さんのお世話になるのはまだ早いかな」「もう少し年とったらね」そうおっしゃってもう何年も過ぎた方もおられるかもしれません。明日も元気でいられる保証はどこにもない私たちです。「お寺でお話を聞く」、お茶飲みに行くような気軽な気持ちでぜひとも足を運んでみて下さいね。

追伸、4月8日は『花まつり』お釈迦様のお誕生日です。今年も若松仏教会30数ヶ寺の僧侶が宗派を超えて高塔山公園の仏舎利塔にてお祝いいたします。ぜひ甘茶をかけにお出かけしてみられませんか?
合掌

くらしの中のギモン ~聞きたいけど聞けないあんなことやこんなこと~

2016年02月01日

Q.「いただきます」「ごちそうさま」は何のため?

A.皆さんは食事の際「いただきます」「ごちそうさま」と手を合わせていますか?テレビを観るとタレントさんが口に運ぶ直前に「いただきます」と言う姿は見ますが、手を合わす姿はほとんどみかけません。また「作ってくれた人」や「お金を払ってくれた人」に言うものだと思っている方もあるようです。

「いただきます」「ごちそうさま」は、食材となった『いのち』に頭を下げることです。他の『いのち』を奪ってしか自分のいのちを繋いでゆくことができない己の姿に気付くこと、そして感謝することを忘れたくないものです。

【食前のことば】
み仏のもと 今さいわいに この浄(きよ)き食にめぐまれました
深くご恩を喜び ありがたくいただきます 南無阿弥陀仏
【食後のことば】
尊いおめぐみにより おいしくいただきました
ごちそうさま 南無阿弥陀仏

~真宗木辺派 食前食後のことば~

元旦の朝日に 手を合わす人は 多いけれども 大晦日の夕日に 手を合わす人は なかなかいない

2015年12月10日

今年も残すところあとわずかとなりました。皆様にとって今年はどんな一年だったでしょうか。喜びの多い年だったでしょうか。時には涙を流してゆかねばならない年だったでしょうか。私にとっては、初めてお会いするご門徒の皆様と一期一会の出会いをたくさんいただき、常照寺と皆様の為にと手探りながら時にはがむしゃらに日々お勤めさせていただいた、そんな一年だった様に思います。温かくお迎え下さいまして、本当に有難うございました。

今年の最後に皆様へご紹介したい言葉があります。

「元旦の朝日に 手を合わす人は 多いけれども
大晦日の夕日に 手を合わす人は なかなかいない」

あるお寺の掲示板に書かれてあった言葉です。

私たちは新年を迎える時、「今年はいい年でありますように」と願います。自然な想いでありましょう。ですが過ぎた日々を振り返ることなく、ただやみくもに毎年お願い事を繰り返すだけでは、何年経とうと生活に変化は生まれないのかもしれません。過去をみつめ、「わたし」という人間をみつめてゆく中に、「おかげさまで」と一日一日新しい朝を迎えさせていただきたいものです。

ご門徒の皆様方には本年も大変お世話になりました。常照寺寺族一同心より御礼申し上げます。来たる年もどうぞ宜しくお願い致します。
釋泰淳 合掌
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