法 話

目の前の 自分にできることを 精一杯

2024年03月01日

 年明けから、地震、津波、航空機事故と、こんなお正月があるのだろうかと、きっと多くの方が心を痛め、テレビの前から離れることができなかったのではないでしょうか。諸行無常、明日どうなるか分からない私たちお互いの人生なのでしょうけれど、だからこそ目の前の自分にできることを精一杯、身近な当たり前に感謝しながら日々を過ごしていきたいと思うことです。

 先日、北九州手話の会若松支部のお仲間より情報提供していただき「テレメンタリー2024~世界一きれいな言葉~」というテレビ番組を観ておりました。聴覚障がい者(ろう者)の両親と、聞こえる(聴者)子ども達という四人家族のドキュメンタリーでした。父親のAさんは生まれてから四十一年間、音のない世界を生きてこられた方でした。

 皆さんは「音のない世界」を想像できるでしょうか?私は試しに音を消して字幕のないドラマを観てみました。何を話しているのか、口の動きを見ても全くわかりません。ただ、「目は口程に物を言う」とはよくいったもので、いつの間にか役者の目や表情に注目している自分に気付きました。言葉は読み取れないけれど、目や表情、身体の動きから「きっとこの人はあんなことを言っているんだろうな」と想像するしかなかったのです。そして相手の言葉を想像することは、目も心もとても疲れる作業だと気付かされました。だからこそ手話が必要なのだと感じました。

 私たち聴者にとって言葉=日本語であるのと同じように、ろう者にとって言葉=手話です。手話が使えればろう者の想いも理解でき、自分の想いもスムーズに伝えることができるのでしょう。私も相手の「言葉」を大切にできるよう、細く長く手話の学びを続けていきたいと思います。

 番組の最後、Aさんの言葉に胸を打たれました。
「もし生まれ変わるとしても、また聞こえない私という人間に生まれたい。聞こえなくてもたくさんのことに挑戦できたから」

 こんな言葉を言えるでしょうか。涙がこぼれそうでした。自分のおかれた境遇に愚痴をこぼすのではなく、目の前の自分にできることを精一杯。

 Aさんの言葉や生き方から教えられることがたくさんありました。              合掌

吾れ 尚 仕合わせなりき

2023年12月20日

 昨年の発症、再発から一年数か月、少し落ち着いていたかのように思えた若坊守の症状。「このまま順調に薬が減っていくといいね」と話していた矢先、先日の報恩講法要の初日を迎えた朝、思いがけない再発、すぐに入院を余儀なくされました。幸い病院の迅速な対応と治療のおかげもあり、五日で退院することができましたが、思う通りにはなってはくれない人生の厳しさを知らされた想いでした。同時に、その後の生き方に関わるような病気を患った時、それをどう受け止めれば良いのか、自分の中でどう折り合いをつけてゆけば良いのか、改めて夫婦で考えさせられたご縁でした。

 今回の報恩講の講師の赤井先生が、ある方の言葉を紹介してくださいました。最期は脳腫瘍という重たい病気を患って亡くなっていかれた、武内キヌエさんという方が残された言葉です。

「人の世は、上見れば上で 下みれば下で 限りなし
吾(わ)れ 半身不随なれど いまだ右手あり、耳あり、右足あり
吾(わ)れ 脳腫瘍なれど いまだ味あり 色彩あり 音あり 声あり 言葉あり 匂いあり
それもやがて消えゆく身なれど 尚(なお)念仏あり み仏あり 大悲あり 浄土あり
吾(わ)れ 尚(なお) 仕合(しあ)わせなりき」

 失ったものに目を向けるのではなく、今ある大切なものに目を向けていかれた武内さん、なかなか言える言葉ではありません。そして注目すべきは「幸せ」ではなく「仕合わせ」と綴っておられる点です。「仕合わせ」とは「出遇い」。今ある大切なものもやがて失ってゆくけれど、そんな私をまるごと包み込んで下さる仏さまとの出遇いがあった、と手を合わせていかれたのでしょう。

 様々なお宅でお話を伺っておりますと、ご門徒の皆様の中にもご病気や悩みを抱えておられる方がたくさんおられることに気付かされます。どうぞ、来年はお寺の法要へお参りし、仏さまのお話を聞いてみられませんか? 病気や悩みの受け止め方が変わっていく出遇いがきっとあると思います。

 ご門徒皆様には本年も大変お世話になりました。寺族一同心より感謝申し上げます。  合掌

「鼻が下に向いとるで  有難いぞなぁ」

2023年11月01日

とあるきっかけから、子ども達が剣道を始めてくれました。私自身学生時代に十二年剣道をやっておりましたので、「精神的に強くなって欲しい」「礼儀を身につけて欲しい」という理由から、もし興味を持ってくれたらと以前より願っておりました。いつまで続けてくれるかは分かりませんが、本人達から「やってみたい」という言葉が出たことは親としてとても嬉しいものでした。

 気が付けば私も子どもと一緒に防具を購入する始末(笑)。九月後半、二十三年ぶりに大人の先生方の稽古に参加しました。とてもきつかったですが楽しかったです。その晩、右足裏が青紫色に。翌日病院へ行くと靭帯を痛めたのだろうとの診断。気持ちは当時のままでしたが、使っていない体がついてこなかったようです。しばらくかかとをつけて歩くこともできませんでしたが、以来、サポーターを着用し、無理しすぎないよう気をつけながら、親子で稽古に通っています。どこか一カ所痛めただけでも「今まで通り」「あたりまえ」がいかに有難いことだったか、改めて知らされた想いでした。
 
 有名な妙好人(みょうこうにん)、因幡(鳥取県)の源左(げんざ)さんのお話をご紹介します。ある日夕立にあい、びしょぬれになって帰ってきた源左さん。それを見た菩提寺の住職さんが「じいさん、ようぬれたのう」と言うと、「ありがとう御座んす。御院家(ごいんげ)さん、鼻が下に向いとるで有難いぞなぁ」「この鼻が上向きについていれば、雨はみな鼻の穴に入ってしまう。しかし下向きについてくださるとはなんと有難いことだろうか」と返したそうです。

 私達は何かを失って初めて、その大切さに気づかされるものです。しかし、できることならば、失う前にその大切さ有難さに気づいておきたいものです。仏法に出遇う、仏法を聞くとは、「今まで通り」「あたりまえ」がいかに有難いことだったかを知らされることなのかもしれませんね。                                       合掌

ご門徒さんから教えられて

2023年09月01日

 私達僧侶にとって、一年で一番忙しいといっても過言ではないお盆。今年もなんとか無事に終えることができました。様々にご協力いただきましたご門徒の皆様へ、心より御礼申し上げます。まだまだ残暑厳しき折、くれぐれもお身体ご自愛くださいませ。

 先日とあるご門徒さん宅へお参りに伺った時のお話です。次のようなご質問をいただきました。
「香炉の灰っていうのは、いっぱいになってきたら、かさを減らしてもいいんですか?」

 今までこのようなご質問は何度もいただいてきました。そしてその度にいつも同じ答えをお伝えしてきました。それは、
「危ないので、むしろどんどんかさを減らしてください」
というものでした。山盛りになった香炉の灰の上にお線香をお供えし、もしお線香が転がって火事にでもなってしまうと大変だからです。続けて、
「中には香炉の灰を山盛りに溜めるのを楽しみにしておられる方もおられますけどね(笑)」
とお伝えすると、そのご門徒さんは
「あ、私も同じかもしれません」
と仰いました。そして、
「今この家には私しかいません。だからお参りするのは私だけで。だんだん溜まっていく灰を見ると、なんだか感慨深いんです」
その言葉を聞いてハッとしました。この方にとって灰というのは、大切な亡き人を想いながら毎日手を合わせてこられた証拠だったんだと気付かされました。

 「灰ひとつにも相手の想いが込められている」「灰ひとつから相手の想いを感じることができる」と
いう大切なことを教えていただきました。

 「私」にとっては何気ないものであっても、「相手」にとってはとても大切なものだったりします。相手の方が大切にするものを一緒に大切にできるような、私でありたいと思わされました。  合掌

散り際以上に 大切なもの

2023年07月01日

 皆さんは「夏」といえば何を思い浮かべられますか?海、キャンプ、うちわ、風鈴、スイカ割り・・・
パッと頭に浮かんでくるものは自身の経験や体験に左右されるのかもしれませんね。

 私は線香花火を思い浮かべます。特に夏の終わりの線香花火はどこか「終わってしまう」物悲しさを感じますが、日本的な風情を感じられるところがとても好きです。

 皆さんは「線香花火の燃え方に段階と名前がある」「線香花火は人生にたとえられる」というお話を聞いたことはありますでしょうか?

牡丹 ・・・火球ができる蕾の状態から、徐々にパチパチと燃えていきます。
松葉 ・・・松の葉を連想させるように、火花が激しく散ります。
柳   ・・・徐々に火花の勢いが衰え、垂れ下がるような線を描きます。
散り菊・・・消える直前。火花が、一本また一本と落ちていく様は、菊の花の散り際のよう。

 解釈には諸説あるようですが、段階に名前がつけられているとは知りませんでした。

 確かに、生まれてから命終えてゆくまでの人生をあらわしているような印象を受けますね。だからこそ私は物悲しさを感じていたのかもしれません。それはつまり「命終わってゆくことは悲しく寂しいこと」という意識が根底にあったからなのかもしれません。

 しかし、仏さまの教えに出遇った時、「散り際の姿以上に大切なものがある」ことを知らされます。
「蕾の時も、牡丹の時も、松葉の時も、柳の時も、散り菊の時も、あなたの命はいつも美しく輝いているのですよ」と見てくださっているのが仏さまでした。

 これから線香花火をする時に、移り変わる一つ一つの姿の中に、美しさを感じてゆけるような目と心を持てる自分でありたいと思うことです。

 暑さ厳しくなる季節、皆様くれぐれもお身体ご自愛くださいませ。             合掌

内は愚にして  他は賢なり

2023年05月01日

 去る三月、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)が日本中を大いに沸かせてくれました。殺伐としたニュースが多い中、日本の世界一奪還のニュースは久しぶりに明るい話題となり、元気や勇気をもらったと感じた方も多かったのではないでしょうか。

 感情むき出しでチームを鼓舞し続けた大谷選手、不振が続き苦しい想いを抱えながらも最後に結果を出してくれた村上選手など、心に残るシーンを挙げればきりがありませんが、最後まで選手を信じ続けた栗山監督の存在と采配は、今回の優勝の大きな一因となったのではないでしょうか。

 今、栗山監督の言葉や考え方が注目されています。栗山監督は著書『未徹在(みてつざい)』の中で
「己の未熟さに気付くからこそ、助力を得て人生を深めることができる」
と書いておられます。未徹在とは仏教の言葉で、「未だ徹せず、未だに到達できない、まだまだ不十分」という意味です。自分は「未徹在」であるという自覚を持っておられるのでしょう。謙虚な姿勢と感謝の心を忘れない、栗山監督の人柄や人生観がうかがえます。

 私はどうだろうかと考えてみます。私達は己の未熟さに自分で気付くことはなかなかできません。むしろ己の未熟さにあえて目を向けないようにすることで自分を保ったり、その未熟さを周囲に悟られまいと時に虚勢を張って生きていることも少なくないかもしれません。

 浄土真宗の宗祖親鸞聖人は『愚禿鈔(ぐとくしょう)』という書物に
「愚禿(ぐとく)が心(しん)は、内(うち)は愚(ぐ)にして外(ほか)は賢(けん)なり」
と言葉を残しておられます。「愚禿と名のる私の心は、その内側には愚かさを持ちながら、外見には賢く振る舞って生きていこうとしている」とご自身をみつめておられるのです。

 栗山監督と親鸞聖人の言葉から、自分を偽らない生き方の大切さを教えられるような気がいたします。                                                      合掌

お経にはなにがかいてあるの?

2023年03月01日

 上記の言葉は、以前とあるご門徒さん宅へお参りに伺った際に、幼稚園に通うお孫さんから尋ねられた問いでした。私も我が子から思いもよらない問いを投げかけられ、一瞬「おっと、どう伝えたらいいのだろう」と言葉に詰まることがありますが、子どもの問いというのは時にドキッとさせられるものですね。

 しかし子どもの問いには、真剣に、かつ分かりやすく答えてあげなければと思っています。

 私は
「おー、すごいね。お経には何が書かれているんだろうって、気になったんだね。どう伝えたらいいのかな・・・。うん、このお仏壇の真ん中に仏さま(阿弥陀如来)がいるよね。この仏さまは〇〇くんのことをとっても大切に想ってくれているんだよ。お経には『私は〇〇くんのことが一番大切なんだ』っていう仏さまの気持ちが書かれているんだよ」
と伝えました。

 そう答えたのには理由がありました。昔、讃岐(現在の香川県)に庄松(しょうま)さんという妙好人(みょうこうにん)(仏法を大変よろこばれ、念仏者として生きた方)がおられました。庄松さんは文字が読めませんでした。
 ある時、庄松さんのことを良く思わない者が
「おい、あんたは有難い人と聞いているが、このお経は何て書いてあるのか、読んでもらえないか?」
と言いました。すると庄松さんは、
「ああ、ありがたいありがたい。『庄松を助けるぞよ。庄松を助けるぞよ』」
と読み上げたのです。この時、お経の本は逆さまだったそうです。たとえ文字が読めなくとも、お経の本が逆さまでも、お経というのはどこを読んでも仏さまの救いが説かれていることを庄松さんはわかっておられたのです。

 私の拙い返しに、お孫さんは「ふーん」と腑に落ちたような落ちていないような表情ではありましたが、何か少しでも伝わるものがあったならば嬉しく思います。

 私もまたお孫さんの問いのおかげで大事なことを思い出すことができました。                              合掌

幸せだから感謝するのではない 感謝が人を幸せにする

2022年12月20日

 今年も残すところあとわずかとなりました。皆様にとって、今年はどんな一年だったでしょうか。

 個人的には妻(若坊守)の病気・二度の入院が大きな出来事となった一年だったように振り返りますが、年の瀬を前に、どこかで「自分は大丈夫だろう」と思ってしまっていた新型コロナウイルスに感染するという一年となってしまいました。

 十一月後半、滋賀県にあります真宗木辺派の本山錦織寺(きんしょくじ)の報恩講法要に、四年ぶりに衣を着て出勤させていただきました。久しぶりにお参りすることができ、大変有意義なひとときとなりました。

 ところが北九州へ戻った翌日、節々の痛みと悪寒を感じ、発熱。まさかと思い、厚労省未承認の抗原検査キット(「研究用」と記載)で検査したところ結果は陰性。少しホッとしましたが、念のためにと薬局にて購入した厚労省承認のキット(「対外診断用医薬品」又は「第一類医薬品」と記載)で検査したところ、結果は陽性でした。その後、解熱剤の処方を希望し医療機関を受診した際に再度検査しましたが、やはり陽性でした。

 すぐに北九州市のホームページを何度も読み、市の規約に沿った自宅隔離生活が始まりました。四回目のワクチン(二価)も接種済みでしたが、発症後まる四日間は三十八度五分の発熱と下痢を毎日繰り返し、その後は鼻と喉・咳の症状にしばらく悩まされました。この間多くのご門徒さんのお参りをお休みさせていただくなどご迷惑をおかけいたしましたが、ある方からは「今までゆっくり休む暇なんてなかったでしょうから、時にはゆっくりしてください」との温かいお言葉をいただいたことでした。

 さて、来年はどのような一年になるのでしょうか。思いがけないことや、思うようにならないことにも出遇ってゆかねばならないお互いの人生なのでしょうけれど、手を合わし感謝の想いで一日一日を大切に過ごしてゆけたらと願います。

 ご門徒の皆様方をはじめ、多くの方々に本年も大変お世話になりました。寺族一同心より御礼申し上げます。来年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。                     
合掌

私の願いはわがまま  仏さまの願いはそのまま

2022年11月01日

 先日、「栗の皮・果肉・種はどこだと思いますか?」というクイズを目にしました。皆さんは答えをご存知だったでしょうか。

 実は「私たちが実と思って食べている部分が種、とげのあるイガが皮、かたい鬼皮が果肉」なんだそうです。私たちは栗の種を食べていたのですね。驚きでした。

 さて、栗といいますと、昔の道話(人の道を説いた話)に“栗の食べ方”というお話があるのだそうで
す。


  ここに十個の栗がある。
  この栗をおいしく食べるには、最初に一番おいし  
  そうな栗を食べる。
  次に九個のうちで一番おいしそうな栗を食べる。
  次に八個のうち、七個のうち、六個のうちと順 
  次、残った中で一番おいしそうな栗を食べて、
  最後に残りの一番おいしい栗を食べ終わる。
  こうすると、全部の栗をことごとくおいしく食べ 
  たことになるわけである。
 これとは逆に、最初に十個のうちで一番まずそうな 
  栗を食べる。
  次に九個のうちで一番まずそうな栗を食べる。
  かくて順次にまずい栗を食べて、最後のまずい栗 
  を食べ終わったとき、
  全部の栗をまずく食べたことになるのである。

 「これは私たちの日常にも通じるお話です。自分の心の持ちよう次第で日常は幸せにも不幸せにもなってゆく。有難いと感謝の想いで日々を過ごしていけたら良いですね」、そんな言葉とともに紹介されておりました。

 確かに日々を前向きに、何事もプラス思考で過ごしていけたら素晴らしいだろうと思います。しかし、生きていれば前を向けなかったり、落ち込んだりすることだってあります。あっていいと思うのです。

 そんな私のことを「そのままのあなたでいいんだよ」と包み込んで下さるのが仏さまなのでしょう。
             合掌

手話を学びはじめて

2022年09月01日

 今年の五月より手話を習い始めました。「北九州市手話奉仕員養成講座」といい、一年間全四十五講座で修了となります。以前より手話に多少の興味はあり、数年前から養成講座の存在も耳にしてはいたのですが、様々なご縁もあり「迷うくらいなら一歩踏み出してみよう」と参加するに至りました。
 
 まだまだ挨拶や自己紹介程度しかできませんが、毎回多くの学びや刺激をいただいております。それは手話の技術だけではありません。手話は単なるコミュニケーションツールではなく国際的にも「言語」として認められているということや、障がいを持つ方の目線に立つことの大切さや難しさ、そしてこの講座で学んだことを周囲に伝え、皆で理解していくことの大切さなど、多岐にわたります。

 講師は聴覚障がい者の先生方。いずれも素晴らしい方ばかりです。障がいとともに生きる方々と身近に接することで、「特別な人と接している感覚」も次第に薄らいでゆき、良い意味で価値観や世界観が広がっていくような感覚も、とても大事なことだと感じています。

 この講座の修了時、どれくらい手話で会話ができるようになっているのかわかりませんが、受講して良かったとすでに感じています。皆さんももし興味がありましたらぜひ受講なさってみてください。

 残暑厳しき折、皆様くれぐれもお身体ご自愛くださいませ。                  合掌
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